現代美術家・束芋 インタビュー3「存在のゆくえ」
ポーラ ミュージアム アネックスにて個展「束芋画 国宝」を開催した現代美術家・束芋。アニメーションを用いた映像インスタレーションを中心に、空間、身体、鑑賞者の知覚が交差する独自の表現を切り拓いてきた。作品はどのように立ち上がり、鑑賞者のなかでどのように変化していくのか。制作の原点からそのゆくえまで、話を聞いた。
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存在のゆくえ
言葉にならないまま手を動かし、空間を組み、時間を重ねる。そのあとで初めて、なぜそれが必要だったのかが分かる。制作とは、すでにある答えへ向かう道ではなく、まだ見えていない理由を探しながら進む過程なのである。だから、確信はすぐには訪れない。束芋さんは、長く制作を続けてきた現在でも、作品が成立するという確信に至るまでには時間がかかると話す。
「いいものができるということは、あるところからは信じられるけれど、制作をしているはじめの一年間ぐらいは、大丈夫かなって思いながらも進めていて」。
「アニメーションを長いこと作っていても、確信まで行くには時間がかかります」。
その不確かさは、制作の弱さではない。むしろ、あらかじめ納得できるものだけをつくるのではなく、まだ説明できないものを抱えながら進むからこそ生まれる時間なのだろう。束芋さんは、そのような状態で制作を続け、発表まで至ることができる場として、アートのフィールドを捉えている。
「そんな感じで制作をして、発表まで至ることができるのが唯一、アートのフィールドなんだろうなと思うんですよ」。
映画や他の多くの表現では、資金を集めるためにも、企画を通すためにも、事前にストーリーや完成形への納得感が求められる。しかし、束芋さんの制作は、必ずしもそのような透明な説明から始まるわけではない。説明できないものを抱えたまま進み、最後の時間のなかでようやく確信に近づいていく。その過程を許容する場として、美術がある。
映像インスタレーションは、束芋さんにとって単なる発表形式ではないのだろう。アニメーションを描く手、場所を読み取る視点、空間を組み立てる判断、そして最後まで確信を持てないまま進む時間。それらすべてを受け止めるために、作品は画面の中だけに留まらず、空間として存在する必要があったのではないか。
説明のつかない必要性に従うこと。それは、曖昧さに身を委ねることではなく、まだ言葉にならないものを見過ごさないための方法である。束芋さんの作品において、アニメーションは時間を紡ぎ、空間はその時間を受け止め、鑑賞者はそこに自身の経験を重ねていく。そうして初めて、作品は誰かの内部に立ち上がる。
これまで映像インスタレーションを続けてきた理由は、ひとつの言葉では語りきれない。けれど、その制作の根にあるものを辿るなら、そこにはいつも、まだ説明できないまま必要だと感じられる何かがあったのではないだろうか。


オクユク(2021)
映像インスタレーション 4 分47 秒ループ
©Tabaimo / Courtesy of Gallery Koyanagi Photo by watsonstudio
なぜ束芋さんは、四半世紀以上にわたり映像インスタレーションという、物質的存在を作り続けているのか。
その問いは、作品そのものから生まれたというよりも、取材を通して束芋さんの言葉を辿るなかで、静かに浮かび上がってきたものだった。映像はデータとして存在できる。アニメーションもまた、画面の中だけで成立する。それにもかかわらず、束芋さんの作品は一貫して空間を伴ってきた。なぜ作品は、イメージのままではなく、空間や物として存在する必要があるのだろうか。その問いを投げかけると、束芋さんはすぐに結論を語るのではなく、現在抱えている戸惑いについて話し始めた。
「今、悩んでるところではあるんですよ。今後どのように説明していくべきなのかなって。これまで人生でさまざまな経験をしてきたなかで、この表現が自分にとって重要だなと思えるけれど。上の世代と下の世代に対しての説明の仕方というのは、違ってくるんじゃないかな。そういう時代になっているのかな、というふうに思ってるんです」。
かつて束芋さんが感じていたのは、失われていく質感を現実の空間へ引き戻すような感覚だった。しかし現在では、触れることのできないものに対しても実感や質感を見出す感覚が広く共有されている。その変化を前提とせずに作品を語ることへの違和感を、束芋さんは感じていたのだ。
これは、デジタルネイティブ世代に対する単純な評価ではない。むしろ、自分たちが当然のように共有してきた知覚のあり方が、少しずつ変化していることへの実感なのだろう。インターネットやSNS、ゲーム空間が日常の一部となった現在、物質として存在していることだけがリアリティを保証するわけではない。触れられないものに質感を覚え、データとしてしか存在しないものに愛着を抱くことも珍しくなくなった。だからこそ束芋さんは、その変化を無視したまま自らの表現を説明することに違和感を覚えている。
なぜ映像インスタレーションなのか。なぜ空間なのか。なぜ物質として存在する必要があるのか。
束芋さんは、その問いに対する答えを持っていないわけではないのだろう。むしろ、長い時間をかけて制作を続けてきたなかで積み重ねられてきた実感として、その重要さは確かに存在している。けれど、その実感をどのような言葉で共有できるのか。あるいは、変化し続ける時代のなかで、どのように語り直していくことができるのか。そのことを考えているように見えた。それは、自らの表現を疑っているということではない。むしろ、自分にとって切実なものだからこそ、その意味を改めて見つめ直しているのではないだろうか。自分にとって重要なものは何か。その重要さはどこから来ているのか。そして、それをどのように他者と共有できるのか。束芋さんの言葉を辿るほどに、その問いは映像インスタレーションという形式を超え、私たちは何を「存在している」と感じるのかという、より大きな問いへと静かに広がっていく。そして、その答えの見えない場所にこそ、これからの束芋さんの作品が立ち上がってくるのかもしれない。
束芋(たばいも)
1975 年兵庫県生まれ。京都造形芸術大学(現・京都芸術大学)卒業。アニメーションを用いた映像インスタレーションを中心に制作し、国内外で発表を続ける。
Interview & Text: Megumi Ichihara
メイン画像:にじむとき(2024)
映像インスタレーション 1 分43 秒ループ
©Tabaimo / Courtesy of Gallery Koyanagi Photo by watsonstudio