現代美術家・束芋 インタビュー2「説明のつかない必要性」

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現代美術家・束芋 インタビュー2「説明のつかない必要性」

ポーラ ミュージアム アネックスにて個展「束芋画 国宝」を開催した現代美術家・束芋。アニメーションを用いた映像インスタレーションを中心に、空間、身体、鑑賞者の知覚が交差する独自の表現を切り拓いてきた。作品はどのように立ち上がり、鑑賞者のなかでどのように変化していくのか。制作の原点からそのゆくえまで、話を聞いた。

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説明のつかない必要性


「自分が写真のすごい技術やセンスを持ち合わせていたら、多分写真で表現してたと思うんですよ。でもそうじゃなかったので」。

その言葉は、束芋さんの表現の出発点をよく表している。何かが十分にできるから、その方法を選んだのではない。むしろ、できないこと、足りないこと、ひとつの技術だけでは届かないことがあったからこそ、いくつもの手法を組み合わせる必要があった。技術的な不足は、欠点として処理されるのではなく、表現を立ち上げるための構造そのものになっていく。

「技術的な部分で足りないところがあるからこそ、自分の表現が組み上がっていくっていうところがあって」。

束芋さんはそう話す。映像インスタレーションは、あらかじめ選ばれた形式というより、足りなさを抱えたまま何かを成立させるための方法として現れたのだろう。そして、その思考の方向性はその後も続き、現在に至るまで映像インスタレーションという形式を支え続けている。アニメーションについての語りにも、同じような逆説がある。一般的にアニメーションは、絵を描く技術や、コツコツと作業を積み重ねる力と結びつけられやすい。しかし束芋さんは、自身について「絵が上手に描けない」、「コツコツやるのが苦手」と話す。その苦手さは、表現から排除されるものではなかった。むしろそこにこそ、アニメーションの可能性があると感じていたという。

「アニメーション表現は、描き手が絵が下手な方がずっと面白くなる可能性を持っていると思うんですね」。

一枚の絵として完結してしまうのではなく、不完全な線や動きが積み重なり、時間となっていく。うまく描けない身体の動きも、ぎこちなさを残したまま連続することで、かえって独特の感覚を生み出す。束芋さんにとってアニメーションとは、滑らかな動きを実現するための技術ではなく、不得意さや不均衡が時間のなかで変化していく場だったのかもしれない。

「多くのアニメーションの作り手は、コツコツとやることもきっと得意だし、絵を描くのも得意な人が多いと思うんですよね。そのなかで独特の雰囲気を出すには、その人たちよりも上手くなることではなく、絵が下手で努力が苦手な自分のままで、それでも努力してコツコツやっていくことの方が、より特異性を出せるっていうのを感じていて」。

網の中(2017)
映像インスタレーション 9 分18 秒ループ
©Tabaimo / Courtesy of Gallery Koyanagi Photo by watsonstudio


ここで語られているのは、自分の弱さを克服していく物語ではない。むしろ、その弱さを迂回せず、そこに残り続けることによってしか生まれない表現があるという認識である。うまくなることよりも、うまくできない自分がそれでも手を動かし続けること。その蓄積が、束芋さんのアニメーションに固有の時間を与えている。その視点は、日常の見方にもつながっている。束芋さんは、目に見えている表面をそのまま受け取るのではなく、「ちょっとそこを、ペロってめくった裏側を見てみたい」と話す。誰かの振る舞い、整えられた空間、きれいにラッピングされたもの。その表面の下に何が隠れているのかを知りたいという欲求は、作品の中で現実の輪郭をわずかにずらしていく視点にもつながっているのだろう。それは対象を暴くための視線というより、見えているものだけでは足りないという感覚に近い。だから作品は、ひとつの正面からではなく、いくつもの角度からゆっくりと確かめられるものとして現れる。

制作は、最初から明確な意味に導かれているわけでもない。束芋さんは、作品が形になるまでのプロセスについてこう語る。

「形というものを空間の中にどう立ち上げていくか。内容そのものと、自分が感じたこと、いまやりたいこと、自分が関わる意味、さらにはその場所や対象が持つストーリーが、どのように絡み合っていくのか。そうした複数のイメージを同時に立ち上げていく感覚に近いと思います」。

この言葉から見えてくるのは、制作を単なる自己表現として捉えない姿勢である。作品は作家の内側から一方向に放たれるものではなく、場所との関係、そこに流れる時間、自分がその場所に関わることの意味を探るなかで少しずつ立ち上がる。だからこそ、映像は単に投影されるものではなく、空間の中に置かれ、場所の条件と接続されなければならない。

だが、その過程は決して最初から言葉で説明できるものではない。むしろ束芋さんは、頭の中で明確にイメージできることへの不信感を語る。「頭の中でイメージできること、こんな私の頭の中でイメージできることの多くは大したことないんですよ。だからそれを超えていかないと」。この言葉は、制作の根にある態度を示しているように思える。完成形をあらかじめ思い描き、それを再現するのでは足りない。自分が考えられる範囲、自分が理解できる範囲を超えるものに触れなければ、作品は立ち上がらない。

「根拠はないけれど、今これが、どうしてもこの作品には必要だ!と思うような感覚っていうのはあるんですよ」。
「まだ言語化はできないけれど、これはこの作品にとって重要なものになっていくとか、こういう形が何かを引き出してくれるような気がするとか」。

その説明のつかない「必要性」は、束芋さんの制作を動かすひとつの核なのだろう。なぜ必要なのかは、作っている最中には分からない。けれど、それを無視してしまえば作品のどこかが失われる。理由よりも先に、必要だという感覚だけがある。制作とは、その感覚に形を与えるための時間でもあるのかもしれない。

そして後になって、その意味がゆっくりと追いついてくる。

「作っていくことで、だんだんね、だからこれを思いついたんだなとか、あとで納得していくようなことが制作過程にある。そういうことが起こらないと、いい作品にならなかったりするんですよね」。


束芋(たばいも)
1975 年兵庫県生まれ。京都造形芸術大学(現・京都芸術大学)卒業。アニメーションを用いた映像インスタレーションを中心に制作し、国内外で発表を続ける。


Interview & Text: Megumi Ichihara


メイン画像:神戸の学校(2024)
映像インスタレーション 2 分52 秒ループ
©Tabaimo / Courtesy of Gallery Koyanagi
Photo by watsonstudio

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