けさうの変遷〜2 弥生 2,500BC – 250〜
風俗文化の域を飛び越えて、現代では芸術文化の一端を担うほどの影響力を持つようになった“化粧”。
日常生活のための服装や装飾品も含めた「粧いの文化」の中で、化粧をすることはどのように始まり、いつ頃から容姿を整えたり美しさを演出するための行為となっていったのか。
その糸口を見つけるべく、まずは歴史を先史時代まで遡り、人類の美意識の発露から日本の化粧の土台が築かれていった古代の幕開けまでを追いかける。
先史時代とは、文字による記録はないが人類の出現が認められている時代を指す。
日本史における先史時代は旧石器・縄文・弥生・古墳時代までで、旧石器時代は紀元前4万年から紀元前1万6000年頃までだ。
一方で、世界史では遥か昔の紀元前250万年から紀元前1万年あたりまでが旧石器時代に区分される。
はじめに世界と日本をパラレルで見つめる理由は、現時点で人物を象った世界最古の造形表現と言われているのが、世界史における旧石器時代、ドイツの紀元前3万5000年前頃の地層から見つかった人物彫刻だからだ。
前回のお話はこちら
▶︎けさうの変遷〜1 旧石器・縄文 40,000BC – 2,400BC〜
2,500 BC – 250 弥生
弥生文化の形成に大きく影響した中国の大陸文化
弥生時代の区分は、紀元前2500年頃から紀元後250~300年 頃まで。
弥生文化は、当時の日本(倭国)が現在の中国や韓国と公的に交流を始め、縄文文化に大陸の文化が混ざることで育まれていった。弥生時代中期には、日本人の生活に欠かせない稲作が普及し、青銅や鉄などの金属器が石器に取って代わった。
日本が弥生時代の頃の中国は、春秋・戦国時代を経て秦、前漢、後漢、三国時代と王朝が次々に交代。文字での記録が非常に進んでおり、戦国時代の国策などがまとめられた『戦国策』には、文化の優れていた三晋地方や南部の楚国で女性達が美しい化粧をしていたという記録がある。遺跡からは多くの化粧道具が出土、記録の中で使われる脂粉(しふん)という言葉は、女性が白粉(おしろい)を塗り美しく装う様子を表しているとされる。
漢代になると化粧の内容はさらに進化し、当時の化粧箱には鉛に由来するものと、現代でもパウダーの原料として使われている滑石に由来するもの、2種類の白粉が小筆とともに存在したという。別の器からは、毛髪とともに男性がセットに使うポマードのような松ヤニと蝋が見つかるなど、今でいうところの基礎化粧や整髪が浸透していた。もちろん、そういった化粧道具を持てるのは家柄や地位の高い人々に限られるが、漢の時代の女性は、髪を高く結い上げて髷(まげ)にすることが常だったようで、隣接する朝鮮半島北部、高句麗の墳墓の壁画に描かれた人物もまた、漢の流行の影響を受けてか男女ともに結髪をし、とくに女性は髷を高く束ねた姿が描かれている。
そんな文化の醸成が著しい中国から漢字が持ち込まれ、弥生時代には文字の使用が始まるが、国内で資料が編纂された形跡は見つからない。当時の様子を知るには、3世紀後半に編纂された三国時代の魏の歴史書『魏志倭人伝』の記録に依ることになる。
弥生時代後期、魏に遣いを送ったのは倭(邪馬台国)の国王だった卑弥呼。卑弥呼は女王にして巫女、縄文から続く祭祀的な文化の指導者として政治の実権を握っていたと見なされている。人々の風俗は、まず男性と女性の服装の違いがはっきりしてきた。布は、麻や和紙の原料であるコウゾといった植物の繊維を編んだ布や、朝鮮半島から伝来した絹の織物で、茜や藍を使って草木染めが施されていた。男性は髪を束ねて布で巻き、幅の広い布を巻きつけ結び留める横幅衣(おうふくい)を、女性は髪を結い上げたり三つ編みにして一枚の布の中央に穴をあけた貫頭衣(かんとうい)を着ていたと思われる。

彩画(文)鏡
中国の戦国時代~前漢時代に制作されたという古鏡。自然科学分析の結果、彩色に水銀朱、岩群青、鉛白、孔雀石が使用されている。
[九州国立博物館所蔵]
出典:「国立文化財機構所蔵品統合検索システム」https://colbase.nich.go.jp/collection_items/kyuhaku/J15
管玉
制作推定時期は、弥生時代後期。管玉 (くだたま) とは、碧玉(へきぎょく)などの石やガラスに穴を開けた細長いビーズのこと。
[東京国立博物館所蔵]
出典:「国立文化財機構所蔵品統合検索システム」https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/J-1736

顔や身体に赤い粉を塗るという弥生の人々の風習
“化粧”という分野に関する変化はあったのだろうか。
『魏志倭人伝』の中では、倭の人々の化粧が大陸のそれとはやや違うことに触れられている。大陸の女性達が白粉を用いるように、倭の人々は顔や身体に朱丹(しゅ)を塗る“施朱(せしゅ)”をしているとある。赤い粉は、おそらくベンガラや水銀朱を指す。国内の記録が無いため、弥生の人々がどのような意図で赤い粉を塗っていたかを定めることは困難だ。ただ、縄文時代の時点でベンガラを遺体に撒いたり、土偶の染めに使っていたこと、そして卑弥呼が魏の王に茜色の絹布を献上したという記録からも、赤=貴い色、神聖な色であり、派生して忠誠を示す色として使われていたとも考察されている。
そのほか、研究者の間で弥生の人々の“化粧”として話題にのぼるのはお歯黒だ。とはいえ、地域によってはお歯黒をしている人がいたということを意味する、『魏志倭人伝』の中の「黒歯国」というひと言が唯一の情報源のため、後の奈良時代から始まる化粧習慣としてのお歯黒と同一の行為かどうかは曖昧だ。ただ、日本国内の一部の地域の伝承には、昔から自生する山葡萄や松房(まつぶさ)の樹につく濃紫色の果実が食されており、食べ続けると歯が青黒く染まることからこれがお歯黒のように見えたのではないかという説がある。果実の甘酸っぱい味は妊婦に好まれやすく、岩手県のとある地域では少女が命を落とした際に、あの世で母になれるその時のためにと山葡萄や松房の実を持たせて葬る風習があったそうだ。大陸の人々が、日本にやってきてそのような自然発生的な出来事や地方の風習を目にして“黒歯”と表したならば、それがいつしかお歯黒が成人や既婚であることを証明する化粧となった可能性は無きにしもあらずだ。
装身具のラインナップについては、縄文時代から引き続き呪術的な意味合いで身に付けられていたようで、取り立てて新奇な要素は登場していない。魏に遣使した卑弥呼が、皇帝から神や霊獣が彫られた100枚の青銅鏡を賜ったという有名なエピソードからも、弥生時代の鏡はまだ化粧のための道具ではなく、神聖な祭祀具だった。しかしながら素材に青銅や鉄、ガラスなどが加わり、より希少価値の高いものは王や巫女など特別な身分の者だけが身につけていたと思われる。

朱
京都府京丹後市の比丘尼屋敷墳墓から勾玉や管玉、剣、石釧などとともに発掘された、弥生時代後期の水銀朱と見られる赤い顔料。
[東京国立博物館所蔵]
出典:「国立文化財機構所蔵品統合検索システム」https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/J-2684
土偶形容器
弥生時代前期のもの。こうした容器から焼けた小児骨が出土した例もあり、当時の再葬墓という風習に使われていた可能性がある。
[東京国立博物館所蔵]
出典:「国立文化財機構所蔵品統合検索システム」https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/J-7532

大規模な墳墓を建設する世界の潮流は日本にも到達
紀元前から紀元後にわたった弥生時代、日本に卑弥呼が登場する少し前、エジプトでは女帝、かのクレオパトラ7世(紀元前69年頃 – 紀元前30年)が最後の王朝、プトレマイオス朝を治めて君臨していた。
乾燥地帯のエジプトでは、紙(パピルス)に当時の風俗が描かれて残されているが、人々は弥生の男性と似た幅広の布を巻く服装で、王や貴族、子供までもが魔除けの目的で化粧をし、装身具を身につけていた。中国の漢代の女性と同じように、エジプトの女性もまた鉛からつくられた白粉を使用し、唇には紅を差し、コールで眉毛やまつ毛を染め、孔雀石を粉末にしてアイシャドウのような緑色の隈取りをしていたという。強い直射日光や虫害から眼を保護するための風習だったといわれる独特なアイメイクは、エジプトで発祥した化粧ではなく、実は東方の魔除け(邪気が眼から入るのを防ぐ)の迷信が転じたともいわれている。ただ、知性溢れる美女と言い伝えられるクレオパトラ7世の時代は美容としての追求も進み、肌を清めて柔らかくする香油や軟膏、ファンデーションの原型のような、肌に彩色するための黄土色の顔料や染料もあったようだ。
そんなエジプトの王家の墓の壮大さは多くの人が知るところだが、同じ頃のギリシャや中国においても、時の権力者が盛大な墳墓をつくるようになっていた。墳墓は死後の住居と捉えられ、生前に使用した化粧品や装身具も埋葬。
日本でも、卑弥呼の墓として有力視されている古墳は墳丘長278~280mと巨大な前方後円墳だ。そしてこの弥生時代の後期から、貴人の葬儀用の特殊器台(土器の壺とその土台のセット)が登場する。
こうした死者に供えるための祭祀用土器が、大規模な墳墓の形成とともに円筒埴輪へと発展し、やがていかにも古墳時代らしい馬や人物を象った埴輪もつくられるようになった。

顔面付壺形土器
弥生時代中期、東日本を中心につくられていた土器。顔面部の目と口の周りに刻まれた刺青のような模様に縄文の余韻が感じられる。
[東京国立博物館所蔵]
出典:「国立文化財機構所蔵品統合検索システム」https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/J-34947
加彩女子
中国の前漢時代に制作されたという写実的な人物像。貴人に仕える侍女がモデルなのか、すっきりまとめた髪や動きやすい服装が特徴。
[東京国立博物館所蔵]
出典:「国立文化財機構所蔵品統合検索システム」
https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/TG-2403

Text & Edit: Kumiko Ishizuka
参考文献 / 参考資料
原田淑人『古代人の化粧と装身具,刀水書房、江馬務『装身と化粧』(新装普及版),中央公論社、山村博美『化粧の日本史』,吉川弘文館、小川勝『ホーレ・フェルスのヴィーナス : ドイツ・ドナウ川上流域出土の後期旧石器時代の小彫像等について』2018.3,鳴門教育大学研究紀要,鳴門教育大学.鳴門教育大学学術研究コレクション https://naruto.repo.nii.ac.jp/records/27972(参照 2026年3月14日)、中村公省『イレズミは縄文人の存在証明証であった,21世紀中国総研.国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12770350(参照 2026年3月14日)、中村公省『土偶は巫女の呪術具であった』続,21 世紀中国総研.国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12770349(参照 2026年3月14日)、文化庁 日本遺産 ポータルサイト #061 星降る中部高地の縄文世界「土偶 縄文のビーナス」 https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/culturalproperties/result/3850/(2026年3月10日閲覧)茅野市尖石縄文考古館 国宝「土偶」(縄文のビーナス)https://www.city.chino.lg.jp/site/togariishi/1755.html(2026年3月16日閲覧)芝山町立 芝山古墳・はにわ博物館 https://www.haniwakan.com/index.html(2026年3月17日閲覧)帝国書院 社会科の教科書・地図帳の出版社 歴史 用語 Q「大和朝廷」ではなく、「ヤマト王権」という用語を使うのはなぜですか。https://www.teikokushoin.co.jp/junior/faq/detail/939/ (2026年3月18日閲覧)文化遺産オンライン「高松塚古墳壁画」 https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/125354(2026年3月10日閲覧)